ざっくりおさらいたいไทย
中国南部からインドシア半島、インドネシナ東部付近にかけ分布。総人口は、約1億人程度と見積もられている。
現在自らの国民国家を形成しているのは、タイ人とラーオ人のみ。それ以外のタイ族は各国民国家内の少数民族の扱いを受けている。
出自として、中国の揚子江以南の地域というのが一般的な説。
タイ族が南下あるいは西進し現在の居住地域に移動してきた背景には、漢民族の勢力の拡大による(本格的になったのは6~7世紀頃と考えられている)。
タイ族が南下してくる前の現タイ領域内には、モン・クメール系の民族が居住していたものと考えられている。
タイ族・ビルマ族・ベトナム族が南下してくる前の大陸部東南アジアでは、モン・クメール系の民族の王朝が盛衰していた。
現タイの領域で最初に政治権力が発生したのは、『海のシルクロード』成立に寄与するものである。
※『海のシルクロード』の記述は、紀元前二世紀後半の中国の記録にあるとの事。
タイ族は古くから水田で稲作を行っていた。
稲作を基盤とする共同体『村หมู่บ้าน(ムーバーン)』が派生し、その「村」の中からリーダーが現れる。周辺の「村」を配下に置き、政治権力を獲得し『国เมือง(ムアン)』が形成されてゆく。
『国เมือง(ムアン)』とは、狭義では領主の居住する中心地、人が集住する町を意味し、広義で云えばその領主の支配権が及ぶ範囲、配下の『村หมู่บ้าน(ムーバーン)』を含むより広い領域を意味するものとなる。
【スコータイ朝】
チャオプラヤー川の支流ヨム河畔に位置し、上流域の山地と中流域の平原の境界付近。
インド洋へも抜けることのできる交通の要衝。クメール帝国の北の拠点が置かれていた場所であった。
クメール帝国が衰退し、タイ族が北から流入。彼等が最初に建設した王国が、スコータイであったとされる。
1240年頃 シーインタラーティット王即位
- 小ムアン領主パームアンとバーンクラーンハーオ(シーインタラーティット王)がクメール太守を駆逐
1279年 第3代ラームカムヘーン王即位
- 初代王の子。在位1279~98頃、現在のタイ領をほぼすべて網羅するまで版図を広げる。
- 上座部仏教を国教と定め、その普及と実践に力を注いだ。
- タイ文字の編纂。
※ タイ文字最古のラームカムヘン王碑文に曰く。
国王のことを『父君พ่อคูน(ポークン)』と呼ぶ。この『父君พ่อคูน(ポークン)』は「住民の困窮に耳を傾け、争い事は公平に裁くという温情主義的な王である」と記されている。
上座部仏教、国王が国民の父であるという認識…現在のタイ社会や文化の源泉が此処に見られる。
1378年 アユッタヤーの遠征によりスコータイ属国化。
1438年 スコータイ朝滅亡(計9代)
【アユッタヤー朝】
チャオプラヤー川南の下流域に都をおく。チャオプラヤー川に支流のロッブリー川とパーッサク川、三本の川の交わる地点の中心であり、交通の要衝に立地。
アユッタヤー朝はスコータイ朝を併合し、更に勢力を拡大した王朝。
ビルマからの独立を境に、前期・後期と区別し、又、支配領域の様相も変っていく。
王家が幾度か変りクーデターによる王位簒奪が発生するなど、政治的安定性は高くはなかったが、400年に亘る長期王朝を継続させた。
1.クメールから引き継いだ統治思想・王権概念
2.サクディナー制に代表される官僚組織
3.地方統治機構の整備
4.王室独占貿易による財源
上記を基盤として、中央集権化が強化されることとなる。これは同時に政治中枢内の複数の人物乃至、役職への集権化でもある(国王への集権化だけではない)。
王朝を長きに亘り支えた根幹ともいえるものが、権力争いの火種に繋がり、アユッタヤー朝崩壊の重要な要因にもなる。
前期アユッタヤー
1351年 ウートーン王、アヨータヤの地に都を置く。アユッタヤー朝の始まり。
- スパンブリーに義兄パグア、ロッブリーに王子ラーメースアンを置き、それぞれを支配させる。
- アユッタヤー・スパンンブリー・ロッブリーとเมือง(ムアン)連合体的性格の国家が成立。
- スパンンブリー・ロッブリー両王家間の勢力争いが派生。
1448年 8代目トライローカナート王即位。
アユッタヤー朝の支配機構の組織化。
- 身分制度「サクディナー制」導入。
- 兵部卿「カラーホーム」内務卿「マハートタイ」を、統治機構の要職に加える。
1569年 アユッタヤー陥落。ビルマの属国へ。マハータンマラーチャー王即位。
※1563年ビルマのタウングー朝により、ピッサヌロークが制圧される。当時ピッサヌローク領主であったマハータンマラーチャーは、ビルマへ忠誠を誓い、長子ナレースアンを人質として差し出す。
後期アユッタヤー
1590年 ナレースアン王即位。
- 1584年ビルマから独立を回復。
- 地方統治機構の強化、王国の中央集権化を推進。
- 1598年ラーンナー王国を属国化。
- ムエタイの創始者とも云われている。
1612年頃 山田長政が朱印船でアユッタヤーへ。
※ 当時アユッタヤーは、外国人が多数居住する国際的な都市に。有能な外国人はタイの官吏にも登用された。山田長政もその一人である(オークヤー・セーナーピムックという欽賜名を得る)。
1656年 ナーラーイ王即位。
- アユッタヤーの文化的繁栄の頂点(古典文学の発生・日食月食の観察)。
- 王室独占貿易による利益を経済的基盤にするアユッタヤーと、東南アジア貿易の独占を目論むヨーロッパ勢の利害が対立。
1683年 オランダによるチャオプラヤー川の封鎖。
1684年 フランスに2回目の使節を派遣(ルイ14世の治世)。
1687年 フランス使節バンコクを占拠。
1688年 ぺートラーチャー王即位。
- 反フランス勢力の代表。クーデターを敢行。
- アユッタヤー朝第5番目にして最後の王家、バーンプルルアーン王家。
1709年~ 「平和なアユッタヤー」の幕開け。
ターイサ王
- 諸外国への米輸出。米輸出国タイの出発点。
ボーロマコト王
- スリランカに使節を2回派遣、仏教の復活を支援。
- カンボジアを属国化。
※ ボーロマコト王死去、王族内の対立が決定的に。
1767年 ビルマにより、アユッタヤー陥落。
- 4月 アユッタヤー朝終焉。
- 10月 タークシンがトンブリーの要塞を奪還。
【トンブリー朝】
・・・('_')
・・・・・なんか、ぅん、気が向いたときに続きをまとめよ…。
中公新書
柿崎一郎著
物語 タイの歴史